和紙のおはなし

哀愁ただよう浅草紙
〜江戸の職人に想いをのせて〜

昔、東京のど真ん中でも和紙を作っていたことをご存知でしょうか。
ほとんどの和紙は山の奥の方で作られています。
山の奥の方で和紙が作られていることには理由があります。「運搬」と「水」という理由です。
主な和紙の原料である楮(こうぞ)は主に山中に原生しております。
楮を刈取りしたあと近場で作らない限り、運搬費用がかかってしまいます。
和紙を作るのに大事なのは「水」
しかも清らかで澄んだ水が和紙を作るのに最適です。
和紙には様々な工程が必要になります。
原料があって、原料の刈取り、運搬、和紙すきまでの工程を一か所でやるには山の中が一番最適といえます。
しかしながら、江戸時代には江戸のど真ん中でも和紙を作っていました。
種類は様々。
台東区浅草では使い古した和紙を再生して紙にしていた「浅草紙」
文京区小石川では水引の芯の部分の和紙などを作っていました。
明治8年に作成された東京の紙漉き地図を見て頂くと市ヶ谷や三田辺りでも和紙が作られていたのが分かりますね。

今回は、「浅草紙」を作っていた浅草近辺の跡地をご紹介します。
浅草紙とは、使い古した大黒帳や鼻紙などを再生してまた和紙にしたものを指します。
白い和紙ではなく、グレーの黒い和紙を作っていました。
使い道は、また鼻紙や落とし紙つまりトイレ用の紙などです。
書くための和紙ではなく、まさに生活用品として使われていた和紙です。
屑紙を収集する業者がいて、それを一度水に浸けて再度漉いた「漉き返し」をしたものが浅草紙となります。
職人の技術が高度だったり元の和紙の質が良かったのか、「鼻をかむ紙は上田か浅草か」といわれていたそうです。
浅草紙を作っていた発祥の場所は、現在の雷門1丁目辺りになります。
昔の地図にもはっきり「カミスキ丁」と明記されています。
大正三年に発行された「浅草区誌」にも「田原町一丁目二丁目、古へは峡田領千束郷に属し、広沢新田の内にして、浅草寺領内の田圃なりき、里民農間に紙漉を業とせしにより紙漉町と称へしといふ」と記載されています。
現在は、田原小学校が建っています。
痕跡は何も残っていませんが、昔存在していたという看板が立っています。

時代でいうと元禄時代が盛んだったようです。
他にも旧地名の紹介の中に紙漉きしていたと明記されています。
江戸時代でも時代の変化に伴ってだんだん雷門近辺は都市化や観光化などが進み、浅草でも裏手にあたる山谷の方にだんだん移っていきます。
山谷では、和紙漉きにちなんだ地名が今も存在しています。
それは「紙洗橋」です。
交差点の名前として現在も残っています。
少し前までは、江戸時代から昭和初期まで使用されていた橋の碑があったのですが、現在は工事してリニューアルされています。
山谷といえば、近くにあるのは吉原です。

「冷やかし」の語源はこの浅草紙が起源というのはご存知でしょうか?

 心ではあいつをなァと見たばかり  女郎見て我家我家へ立ちかへり  寝ぬ里へひびく山谷の紙砧   すががきがやむと山谷の遠砧 

山谷からの漉場から冷やがった紙料を叩く音が断続して寂しくひびいてくる様がこの川柳から想像できますね。
少し話はそれますが、吉原は大きな紙の消費地帯でした。
紙屑かごから屑屋に渡って再び浅草紙になるのです。
通常の紙屑よりも高値に取引されたそうで郭内にあった紙屑屋は大変儲かったそうです。
もっとも、一般の人たちは不浄な紙といわれていて嫌われていたそうなので、また吉原へと戻っていったそうです。
こちらも想像できますね。(参照:郷土史東京第二巻第12号より)
(余談ですが、代表の篠田の本家は昭和初期まで長野県飯田市にて遊郭「長姫楼」を開いておりました。)
たった1枚の紙にもさまざまな歴史が垣間見れて江戸時代に想いが馳せます。
(落語にも紙屑屋というお話があってこちらも大変ユニークな話となっています)
雷門も山谷も隅田川が近くに存在します。
紙漉きで大事な水が常に供給できていたことが分かりますね。

「粋」か「野暮」か
〜和紙小噺「冷やかし」〜

『冷やかし』という言葉は「吉原」と「和紙」に関係しているということをご存知ですか?
江戸時代、和紙を再利用するためにすき返すことは日本中で普通に行われていました。
和紙は、大変高級品でした。
一度使用しても何度も再利用していました。
高級品に再使用したり、「落とし紙」と言って現代でいうトイレットペーパーなどにも再利用されていました。
浅草でも同様にすき返していました。
地図で示す通り、江戸時代は浅草・田原町あたりで紙すきをしていました。
台東区雷門1丁目あたりを「紙漉き町」と呼び、だんだん浅草寺の裏手になる山谷や橋場へ移り、さらに千住や足立区へと移動していきました。
浅草ですいていた和紙は「浅草紙(あさくさがみ)」と呼ばれていました。
使い古した和紙を職人がちぎって水の中に入れて紙を漬けていました。
この作業のことを「冷やかし」といいます。

紙を漬ける時間は24時間という長い時間がかかります。
水の中に漬け終わってから次の作業まで職人はやることがありません。
その時間をつぶすため、職人たちは近所にある吉原に遊びに行ったのです。
ただ、職人はお金をたくさん貯めているわけでもありません。
いろんなお店にいる花魁たちを眺めながらあれこれ妄想して楽しむだけでした。
花魁たちも事情を知っています。職人を見つけてはからかいながら声をかけるのです。
「ああ、また「冷やかし」が来やがった」と…。
これが「冷やかし」の語源です。
なぜ、職人かどうか分かったかというと、足元を見れば一目瞭然でした。

江戸時代の吉原は、田んぼの真ん中にありました。
お金持ちや殿様たちは、みな舟に乗って吉原に向かいます。
当然、足袋や着物は白く綺麗なままです。
しかし、職人たちなどは舟に乗るお金はありません。
田んぼを歩いて吉原に渡っていくので、足元は泥だらけです。
だからこそ、花魁たちは一目で見抜いたのです。
いまでも「冷やかし」は買うつもりはないのに商品を品定めしたり、相手のはずかしい所をからかうことを意味しています。
言葉の意味を知ると、和紙も身近に親しみを感じますね。