代表篠田のこれまでの人生⑧(母との別れ~東京和紙立上げ)

みなさま、はじめまして。

東京和紙の代表理事をしております篠田と申します。

こちらの記事ではどうやって和紙に携わることになったかをご紹介したいと思います。

いま、私が代表理事を務めさせてもらい、一生懸命にやっている和紙の仕事。

この和紙の仕事に出会うまで、

和紙の仕事を一生の仕事にすることになるまで、

さまざまなできごと、多くの人との出会いを経験し、様々な人からの支援がありました。

どうして、和紙の仕事を一生懸命にやっているのか、本当にいろいろな人から尋ねられます。

私は、自分が和紙の仕事を一生の仕事として選択するまでのお話をしていきたいと思っています。

そのためには私の生い立ちや人生の話をする必要があると思っています。

今回は、また大きな別れが待ち構えております。

だんだん、厳しい状況の中でも少しずつ道筋が見えてきそうな予感です。


突然の母との別れ

今度は、個人の「久平雅工房」と法人として動き出そうとする「東京和紙」の二足を動き始めようとしている時でした。

2016年5月に母が亡くなりました。

いつも大事な時に大切な人物が亡くなっていきます。

突然の死だったゆえ、対応に奔走しました。

突然だったため、少なかったはずのやらなければならないことすら手を付けず、対応に奔走しました。

母は、高校の音楽教師をしながら家ではピアノを教えていました。

元々肝臓が悪かったため、健康のためにヨガを習い始めたらハマってしまい認定講師となってヨガの教室まで開く様になりました。

音楽教師を退職した後もコーラス教室を開きあちこちの老人ホームに慰労してまわるほどパワフルな人でした。

こうと決めたらだれが何と言おうと頑として進む性格でした。

また、華やかな場所が好きで社交的だったので弱い自分を一切外部には見せたことがなかったことを周りからの話で知りました。

お葬式にはたくさんのコーラス教室やヨガ教室の生徒さんが集まられて号泣されていました。

母の遺影

私や兄姉は参列者のフォローに追われ、泣く暇もなく感傷に浸ることもなく、葬式が終わりました。

葬式をやっていたのに、なぜか他人事のように終わってしまったことを覚えています。

何十年の教室を開催しつ続けていけるパワーや人を惹きつけるものはすごいと正直に思いました。

ある二世俳優さんが父親である役者さんが亡くなった際に

「父親としては最悪だったが、役者としては最高だった」と言ってました。

まさにうちも同じだと感じました。

「母親としては最悪だったが、先生としては最高だった」と思います。

父が亡くなった後、私は実家とは疎遠になっていました。

それは最後まで母に対して抵抗があったからです。

父の介護中もキーキーとヒステリックに怒ることが多々あったこと、冒頭で話をしたような幼児のころの厳しいしつけは何十年経っても忘れることはできませんでした。

ただ、亡くなったとたんに抵抗も憎しみもすうっと自然に消えてしまいました。

今では心から「産んでくれてありがとう」と感謝できます。

生きているあいだにそのことを母親に伝えないなんて親不孝だと感じる人もいるかもしれません。

私は笑顔で母を見送ることができたと今でも考えています。

七五三での母と私

「東京和紙」本格立ち上げ

大きな出来事を経て東京和紙の立ち上げに本格的に考えるようになりました。

もともとの言い出しっぺが途中から参加しなくなってしまったため、きちんと形を作る義務を感じたからでもあります。

私にとって「言葉」は「無」でしかありません。

「やります」も「やめます」も同じ口から発しているだけに過ぎません。

行動はすればするほど「成果」を生み出す。

失敗という成果もあれば成功という成果も生み出す。

ゼロではなく「1」に進めることができます。

だからこそ、関わった以上は形にする、結果にするためにも行動しなければなりません。

メンバーとも話をして「東京和紙をゼロにしないようにすること」を最初の目標にしました。

伝統工芸でもある「和紙」

ユネスコ無形文化遺産に登録された「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」(石州半紙、本美濃紙、細川紙)

話題になったとしても各地の和紙産地は職人の高齢化、後継者問題、需要の減少などで厳しい問題点ばかりです。

和紙を1から100にすることは今の時代にはとても厳しいと思うし、それぞれの個人の能力、リソースでは無理があります。しかし「0(ゼロ)にしないこと」は自分たちでできます。

ずっと「1」を保ち続ける様な活動をしようと決めました。

法人は「社団法人」とすることにしました。

メンバーそれぞれが個人での仕事もしていることや経費を除いたわずかな売上を保ち続ければ安定して継続できるだろうと考えたからです。

そして、ついに2016年9月に「一般社団法人東京和紙」が誕生。

東京和紙ロゴ

和紙をすいて生産するだけでなく、和紙すきのワークショップや東京和紙の原料となる「楮(こうぞ)」やすく際に必要となるネリの「トロロアオイ」をみんなで育てるプランタープロジェクトも立ち上げました。

畑作業風景

他の和紙産地にはなく、東京和紙でしかできないものを掲げる必要があると考え、「和紙を食す」和紙の原料を料理して食べてみる、という活動も進めることにしました。

和紙の原料の楮(こうぞ)を使ったお茶とスイーツ

「食す」のきっかけはふとした一言でした。

東京和紙の特徴を考えた際に「安心安全」が重要であると考えました。

原料も国産、原料から和紙を作る際も自然のものしか使用しないことで安全と安心を確保するということです。

他の産地では、和紙を白くするために薬品で漂白したりネリのトロロアオイを持続させるために薬品を使用しているところも多いです。

これでは、すいている職人に害がおよぶことになります。

これは「安全」といえません。

東京和紙では、自然の力をかりて白くしトロロアオイにも薬品は使用しないことにしました。

食べられるほどに「安全」を主張するためには「食べてみるのが分かりやすい」と考えたからです。

楮やトロロアオイは幹や根っこを太くするために葉や花、実や芽は摘んでしまいます。

摘んでしまった葉っぱや花、芽は全て廃棄されてしまいます。

楮は桑科の植物です。

桑の葉は健康食材として、桑の実は最近、ジャムとして話題となっています。

同じ科の植物ならば同じ効果があるかもしれない。

楮(こうぞ)の赤い実

ネットで調べたところ、楮の実や葉は漢方に使われているようでした。

また、トロロアオイは別名「花オクラ」といわれています。

トロロアオイの花

花は大きな黄色い花びらで咲いている地域では酢の物やお寿司にして食していました。

ネバネバ成分はかまぼこやそばのつなぎに使用していることもあることが分かりました。

花は一日でしぼんでしまうためなかなか市場には出回らないため、トロロアオイの花を知らない人が大半です。

東京和紙は、完成した和紙だけでなく食べるという観点から和紙を広めることも大事と考えました。

食べることを通じて和紙の原料にも興味を持って育てるプロジェクトへの導入にしたいと考えたからです。

やりたい事、知ってほしいことは山ほどあるが、なかなか結果が伴わない。

ましては新人の「東京和紙」としての実績もないため、さまざまな点で不利なことだらけです。

当初考えていた「そこそこの売上の安定」は現実的に厳しくなってきてしまいました。

それぞれの個人の活動もあるため東京和紙としての活動は少ないことも一つの要因でした。

手間としては個人と同じようにかかってしまい、東京和紙の活動が割に合わなくなっていく現実をまざまざと見せられました。

補助金や助成金の申請に関しても「社団法人はOK」というものは少ないのです。

やっと見つけた補助金も残念ながら落ちてしまいました。

落ちた原因として考えられたのは「実績のなさ」でした。

1年経過した時点で再度見直しや改善を余儀なくされました。

きっちりと売上を上げていける団体にしなければ「1を保ち続けることはできない」と改めて気づかされたのです。

(その⑨現在の東京和紙に続く)

(その⑦独立への道~東京和紙設立へはこちら)