代表篠田のこれまでの人生⑦(独立への道~東京和紙設立へ)

みなさま、はじめまして。

東京和紙の代表理事をしております篠田と申します。

こちらの記事ではどうやって和紙に携わることになったかをご紹介したいと思います。

いま、私が代表理事を務めさせてもらい、一生懸命にやっている和紙の仕事。

この和紙の仕事に出会うまで、

和紙の仕事を一生の仕事にすることになるまで、

さまざまなできごと、多くの人との出会いを経験し、様々な人からの支援がありました。

どうして、和紙の仕事を一生懸命にやっているのか、本当にいろいろな人から尋ねられます。

私は、自分が和紙の仕事を一生の仕事として選択するまでのお話をしていきたいと思っています。

そのためには私の生い立ちや人生の話をする必要があると思っています。

今回は、本格的に和紙に取り組んでいんでいき東京和紙設立までをご紹介します。

まだまだ厳しい道のりは続きますが…。


目の前の現実

スマホをAndroidからiphoneに買い替えていました。

和紙や作品を撮影するのによりきれいに撮れるのはiphoneと言われiphone5に機種変更。

ちょうど透明なクリアケースも購入し、せっかくならば和紙でデコレーションしようとおもい、制作してネットにアップしたところ反応が多かったのです。

「欲しい。どこに売っているの?」

「手作りなの?私にも作って」などなど。

私は売上を作るのはこれだ、と思っていくつも作り、買ってもらえるように安価で販売していきました。

最初は、クリアケースの内側に入れるスタイルにしました。

和紙iphoneカバー第1号

せっかく和紙の風合いも感じられるようにと思いクリアケースの外側に和紙を接着してオリジナル性を高めていきました。

リニューアルした和紙iPhoneカバー

友人知人だけでなくカフェなどに展示販売もしてみました。

調子にのってパリの「JAPAN TOUCH FESTIVAl」の展示会でも委託販売にチャレンジ。

パリでの委託展示風景

売上としては少なかったが、反応は色々あったと聞いて事業として進むべき方向性が定まっていった様に感じでした。

また、台湾の会社からもiPhoneカバーにたいして問い合わせがあったり、浅草の神社の境内で販売した際も中国人があれもこれもと購入していきました。

想定外の反応で国内ではなく海外での展開を夢見る様になりました。

独立への道

そこで一大決心をします。

本格的に和紙iPhoneカバーを中心とした雑貨の制作企画販売を中心として起業することにしました。

まず、きちんと制作やワークショップできるスペースを確保すべく賃貸だが一軒家に引っ越しをしました。

制作部屋

そして、契約社員から数えて約11年お世話になったパッケージメーカーからも独立。

まだまだ成果を出していない状態で稼ぐ柱をなくすのは不安がありましたが、前へ進むことにしました。

ちょうど創業補助金の公募もあったので、周りの人に力を借りて無事採択を受けることができました。

補助金申請書類

また、石巻のママさんたちにも和紙商品の内職をお手伝い頂くシステムを作りました。

石巻の内職ママさん(当時)

最初は和紙にふれる機会もなかったママさんたち。

何度か石巻に出向き、作業のレクチャーをして作業を覚えて頂き簡単な糊付け位からお仕事をお願いしました。

仕事の依頼の頻度もお手伝い頂けるママさん達もまだまだ少ないですが、ちょっとずつ流れを作ることができていきました。

とある映画のオフィシャルグッズを作りませんかというお誘いも頂き、まさに順風満帆なスタートを切りました。

とはいうものの、現実はそうはうまくいくわけではありません。

オフィシャルグッズとしての契約内容を把握できておらず、想定していなかったことがたくさん発生しました。

たとえば、

*制作した商品を映画の制作会社が販売してくれると思っていたら、実際は作った商品を自分で販売しなければならず、製造した商品分のロイヤルティを払うだけだった。

*初めて関東の外注業者で商品を制作することにしたが、当初予定していた以上のロスが発生してしまい納期がどんどん崩れていった。

*売上の想定数を完全に見誤って在庫がやまのようになる。

*和紙に印刷をするために業者に依頼する場合、LOTを多くしないと単価が安くならないためそこをシビアに検討しなくてはならなかった。

*日本全国で売れると考えていたが、映画自体が単館もので認知度が低かったため当然商品としての価値も低く店舗や業者が販売してくれるところがほぼなかった。(特に関西方面)

*映画は実写だが、イラスト化した商品は全く売れなかった。

*iPhoneカバーもさまざまなサイズを用意したが、どんどん新しいバージョンが誕生しどんどん古い機種サイズは売れなくなった。

*手間ばかりが多い商品のため、単価を下げることが容易ではなかった。

暑い夏の日にあちこち一人奔走するが、どんどん赤字が膨らむ一方でした。

外注での制作風景

おまけに他の展開はほぼストップ。

他での売り上げを作ることができず、結局は何のために動き回っていたのかわからない半年が経過しました。

海外展開なんて夢のまた夢に。

全て自分自身の甘さ、判断能力のなさ、経験のなさが原因だったと今振り返ってみると思います。

前に失敗したことを繰り返してしまいました。(和紙の夢がどこかに飛んで妄想に近い夢ばかり追いかけてしまった)

わからないものを立ち止まって考えることなく、分からないまま曖昧にして突進してしまったのが原因です。

全て自分一人で決断してしまい、残念ながら相談する人がいなかったのです。

計画や見通しを立てずにその場のトラブルに振り回されていました。

本当に自分があほだったと落ち込むばかりです。

浮かれていた自分がこれほど情けなく思えたことはなかったし、怒りなどを他人にぶつけることができないので悶々とした日々をずっと過ごしておりました。

これ以降絶対キャラクターグッズには手を出さないと固く誓ったのです。

そして、せっかく採択された補助金もほとんど有効に活用することができずに期間が終了。

本当に人生谷ばかりを歩んでおります。

「東京和紙」設立へ

最悪な2015年を過ごし、2016年は改めて再スタートをきろうとしたときに知り合いの和紙職人から「東京和紙を作らないか」と誘われました。

電話では内容を理解できなかったため、後日顔を合わせて話を聞かせてもらうことにしました。

何人かの和紙職人が集まって発起人である職人から話を聞きました。

キーワードはやはり「2020年の東京オリンピック」でした。

当時、中国人の爆買いが続いていたこともあって日本の伝統工芸でもある和紙を売りこもうということでもあったのです。

東京には「東京の和紙または江戸の和紙」というのがあまり残っていません。

東京端の五日市地域には昔「群道紙」というものが存在しましたが明治時代に消滅してしまいました(現在は保存会として活動)

浅草でも和紙をすきかえして再利用する「浅草紙」は存在していましたが、現時点では残っていないし、歴史上にも名前すらほぼ残っていない状態です。

昭和初期の浅草地図(紙漉き街が存在)

その状況の中で、東京の和紙を作ろうというのがきっかけでした。

ただ、話はほとんど妄想に近い状態で現実的ではありません。

私は二度も大きな失敗をしていた経験から、きちんと計画を立てて目標をもってどう行動すればよいかを具体的に考えることが必要であると伝えました。

これだけのことをするのであれば、和紙業界だけでなく他業種多方面からの協力も必要になると考えたので法人化も必要だと伝えました。

集まったメンバーのほとんどが一人で仕事している職人ばかりだったので団体、組織としてまとまっていくにも法人化が重要と考えていました。

私自身は和紙を漉いてもいないし職人でもなかったので当初は話を聞く程度としか考えていませんでした。

個人の活動も売上を上げなければならなかったので正直余裕がなかったのです。

ただ、東京の和紙には興味を持っていました。

個人であつかう和紙はすべて地方で作られた和紙で量産された和紙でしかありません。

提案する中で「madeinTokyoの和紙はないの?」と聞かれることが度々ありました

量産された和紙を使用しているため、似たような和紙で作られている商品とちがいをだすことができず価値を高めることもできないし単価を上げにくいという現実もありました。

企業と同じ和紙を使ってもさまざまな面で個人では負けてしまう。

和紙としての幅に少し限界を感じていた状況だったので、自分たちのオリジナル和紙を作って商品にすることができることに魅力を感じました。

自分自身は職人ではないためどう立場を持っていけばよいかが不明確だったので距離を置いて関わろうとしました。

話を聞いていくうちにこの提案には誰かのカジ取りが必要と考え始めたのです。

起業する際にはさんざん「どこにターゲットをおくのか」「この商品の強みはなにか」「他との差別化はどこか」などを考えさせられました。

今回も同じことがいえます。

この話がまとまりきらずに自然消滅したり、参加者個人個人が勝手な道筋で進みそうな気配を感じてどんどん話の中心に関わることになりました。

最初にまとめた東京和紙イメージマップ

(その⑧母との別れ~東京和紙立上げに続く)

(その⑥初ワークショップ~父との別れはこちら)