代表篠田のこれまでの人生③(和紙との出会い)

みなさま、はじめまして。

東京和紙の代表理事をしております篠田と申します。

こちらの記事ではどうやって和紙に携わることになったかをご紹介したいと思います。

いま、私が代表理事を務めさせてもらい、一生懸命にやっている和紙の仕事。

この和紙の仕事に出会うまで、

和紙の仕事を一生の仕事にすることになるまで、

さまざまなできごと、多くの人との出会いを経験し、様々な人からの支援がありました。

どうして、和紙の仕事を一生懸命にやっているのか、本当にいろいろな人から尋ねられます。

私は、自分が和紙の仕事を一生の仕事として選択するまでのお話をしていきたいと思っています。

そのためには私の生い立ちや人生の話をする必要があると思っています。

今回は、ようやく和紙の出会いについてからご紹介します。

私にとって大事なターニングポイントを迎えます。

和紙と出会い、和紙の仕事にしていくにはまだまだ長い道のりがありますが…。


和紙との出会い

最後の「パッケージデザイン」でついに和紙に触れる機会が出てきました。

パッケージデザインの中で私が担当していたのは、紙箱や紙袋の形状を設計するデザインです。

わかりやすくいえば、ケーキ箱や化粧品の箱、段ボールディスプレイの設計図、デザインを作成していました。

箱の設計図

事の中でどの紙を使ってパッケージを作るか決めなければならなかったため、さまざまな紙についての知識が業務上、必要でした。

紙といっても値段が安いもの高いもの、風合いや色合いが違うものなどあります。

クライアントのリクエストやご希望、要望に合わせて紙を選択し、提案しなければなりません。

仕事の中で使っていた紙の中心は、洋紙の大量に仕入れて印刷や機械で箱などを貼るのに一番適しているコート紙でした。

しかし、なかにはデザイナーが提案する紙で受注するパッケージもありました。

その中に和紙が含まれていました。

和紙のパッケージにすると風合いが洋紙とは比べ物にならないほどグレードアップして高級パッケージに変身します。

実際に和紙のパッケージの多くは高級な商品の外箱として使用されていました。

和紙を使ったパッケージ

クライアントも和紙の風合いをリクエストするところも少なくありませんでした。

和紙と一言でいってもさまざまな種類があることを仕事を通して知ることができました。

屋号と家業の復活宣言!

パッケージデザインの仕事をやっているころから、私は和紙のことを「素敵な紙」と思い始めるようになりました。

そんな中、私が和紙の仕事に進むことを決定づける運命の日がやってきました。

忘れもしません。2005年8月15日、終戦記念日のことです。

当時一人暮らしをしていて私は実家を出ていたのですが、お盆休みの帰省のため実家に帰ってました。

そのとき、母は外出して父しか在宅していませんでした。

せっかく実家に戻ったので父と2人で夕飯を食べてました。

ちょうどテレビでは映画「YAMATO」が放送されていました。

父の兄も第二次世界大戦で戦死していました。

映画を何気なく見ていたときに私がふと父に質問しました。

私「そういえば、篠田家は商売をやっていたと聞いたけど何をしていたの?」

父「水引だよ」

私「水引!?」

この瞬間、私は一気にご先祖様に親近感を抱きました。

水引は、和紙に糊をつけながらこよって紐状にしたものです。

カラフルな水引

紐状にした和紙に色紙や絹糸を巻いたものがいま、お店で販売されている祝儀袋などで使われている水引です。

昔の水引は、いま販売されているような色彩の鮮やかなものではなく髪結いや書類などを束ねる紐として日用品として使われていました。

今でもお相撲さんのまげをゆう際に昔のままの水引が使われています。

父の出身である長野県飯田市の水引は有名な産地でもあります。

飯田水引について

父の兄弟は兄(私にとっては伯父さん)しかおらず、2人兄弟です。

その伯父も子供を残すこともなく第二次世界大戦で戦死してしまい、血筋としては父の家系、つまり私たち兄姉しかおりません。

その中で和紙=紙に関係する仕事をしていたのは私しかいませんでした。

水引は和紙からできていることは当時から知っていました。このあと、父にご先祖様について質問攻めしました。

*篠田家には本家と分家がいて、うちの家系は分家であること。

*本家は遊郭を生業としていたこと(長姫楼という名前だったそうです)

*父も本家にお使いで行き来することがあったが、物心つくと表から入るのは恥ずかしく裏門から訪ねていたこと。

*分家の水引問屋では、実際に水引を作るのはお百姓さんたちであり、手があく冬の農閑期の時期に作ってもらっていたこと。

お百姓さんたちが作った水引を買って売り歩いていたこと。

*おじいさんは昭和初期にばい菌が体内に入ったことによる心臓発作で亡くなったこと。(享年42歳)

*当時の家業は家族が継ぐのは習わしだったけれども、父も伯父もまだ幼子だったため、やむなく家業をやめてしまうことになったこと。

そして、なによりさらに心を掴んだことがありました。

「なぜかうちの家系は次男が当主になっている」

祖父も次男、父も次男であること。

戸籍を見ると祖父の前も次男が継いでいます。

祖父の戸籍

おじいさんは大正末期、貿易商社の支店長をしていました。

ずっとNY支店長を狙っていたそうだが、当主である長男が亡くなったためやむなく家業と継ぎ、名前を当主が名乗る「久平」に変更しました。

家業と継いでからも手広く事業を拡げていたようです。

私には兄と姉がいます。

長男、長女、次女で、私が次女にあたります。

次男は残念ながらいないが、「次女」である私が存在する。

父に対する質問からはじまった会話から、私の中で一気に気持ちが固まって父に宣言しました。

「私が屋号と家業を復活します!」

父は「?」の顔をしていたのをいまでもよく覚えています。

和紙の仕事を探して

屋号と家業を復活させるという宣言をして和紙の仕事をはじめるきっかけはできても、和紙の仕事はすぐにはスタートできませんでした。

屋号と家業を復活させようと思って、最初にやったこと。それは屋号の名前を決めること。そのために屋号を考え始めました。

篠田家の当主の名前である「久平」は絶対に入れることだけは決めていました。

ただ、私にはもう一つ入れたい言葉がありました。

それは「雅」という言葉です。

「雅」という言葉は篠田家では代々受け継がれた名前でした。

祖父は「雅男」で父は「雅人」とつながっていました。それが私の代で途切れている。なんとかして、どこかで入れたい。

色々考えて、屋号は「久平雅(きゅうへいみやび)」とすることにしました。

和紙を作るのだから「工房」もつけたいと思い、「久平雅工房」という名前に決めました。

家紋をロゴマークにしました

屋号が決まっても、これまで和紙の仕事なんてやったことはありません。

どんな和紙を販売していくことすら全くアイデアがない状態です。

和紙を専業で取り扱う会社にいたわけでもなかったので、和紙に関する知識はほとんどない状態のまま。

昔の家業が水引問屋だったのだから、水引専業にしてみようかとも考えました。

現実問題として多くの人にとって水引は祝儀袋でしか見たことはありません。

水引だけを専業にするにはあまりにも市場が小さく、生活を続けることは難しいと判断しました。

水引はもともと和紙からできている。だったら、和紙全般を仕事として扱っていこうと決めました。

和紙全般を扱うにしても、何から手をつければよいのかさっぱりわからない。

和紙すき職人になろうかとも考えてみたけれど、そもそも職人を募集している産地がそのときは見つからない状態。

しかも当時私はすでに30代の半ばだったのでなかなか職人になるのは厳しいと考えていました。

和紙全般を取り扱うにしても、職人という選択肢をとれないのであれば、和紙で商品を作り販売するということが仕事になるはず。

とはいうものの、すでに存在している商品を仕入れてそのまま販売するのでは面白くないし、自分の進むべき方向ではないと考えました。

転職を繰り返した当時から自分でアクセサリーや雑貨を作ってイベントなどで販売していたので、オリジナル性が出せるものを作りたい、と思っていました。

他の人がやっていない独自の和紙がないか探していくことになった。

(その④和紙の仕事発見~迷走に続く)
(その②短大~社会人時代まではこちら)