代表の篠田のこれまでの人生②(短大~社会人時代まで)

みなさま、はじめまして。

東京和紙の代表理事をしております篠田と申します。

こちらの記事ではどうやって和紙に携わることになったかをご紹介したいと思います。

いま、私が代表理事を務めさせてもらい、一生懸命にやっている和紙の仕事。

この和紙の仕事に出会うまで、

和紙の仕事を一生の仕事にすることになるまで、

さまざまなできごと、多くの人との出会いを経験し、様々な人からの支援がありました。

どうして、和紙の仕事を一生懸命にやっているのか、本当にいろいろな人から尋ねられます。

私は、自分が和紙の仕事を一生の仕事として選択するまでのお話をしていきたいと思っています。

そのためには私の生い立ちや人生の話をする必要があると思っています。

今回は、短大から社会人時代までをお伝えしてます。

まだ和紙の話は出てきていませんが、だんだん「ものづくり」に対して興味を持ち始めてきた時期になります。


短大時代

私が合格した短大のコースは広くさまざまな美術の分野の基礎を学ぶものだったので毎日が新鮮でした。

世間のイメージにあるようなただ絵を描くだけでなく、粘土で立体物をつくったり七宝を作って焼いたり、建築用のパネルのミニチュアを作ったりしました。

美術とは絵を描くだけのものではないということを教えられた貴重で楽しい時間でした。

短大のパンフレットに掲載した写真

短大の授業が終わると、アルバイトもしていました。

いまでは信じられないのですが、なんとテレビ局の電飾をセットに飾ったり、撮影スタジオでアシスタントをやったり、印刷会社で原稿を書いたりしていました。

1年生のときは学校、アルバイトと自分のための時間を十分に使って充実した毎日を過ごしていました。

私は短大に進学したため、2年生になると就職活動がはじまります。

1年生のときにはまったくなかった迷いも出てきました。

入学当初はデコレーターになりたいと考えていましたが、さまざまな講義を通じて知った美術やマスコミの仕事に触れてきて、やりたいことがあれこれ出てきたからです。

そんな中で一番興味を持ったのが映像でした。

テレビ局でのアルバイトや撮影スタジオでのアシスタントも影響が大きかったのではないか、と思います。

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時はバブルが崩壊し就職率が一気に下がったとき、就職氷河期の入り口での就職活動がはじまりました。

就職活動で受ける会社はほぼ落ちました。その数100社以上。

ご縁がない、という通知をみては毎日が落胆の日々。

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夢の中でも不採用通知が出てくるほどの暗いトンネルの中にいました。

将来の夢もシビアな社会情勢に直面し、短い時間で一気に崩れ去ろうとしていました。

自分自身が希望していた映像関係とディスプレイ関係、共に募集をしている会社は数社しかなく、さまざまな条件でクリアできないことばかりでした。

それでも求人雑誌とにらめっこしながらいくつも面接を受け続けました。

このとき私が大事にしていたのは「個性」でした。

就職活動に際して誰もが着ているリクルートスーツと誰もが持っている黒かばんではなく、色あざやかなジャケットとパンツで就職活動をつづけました。

就職したければ他の就活生と同じようなスーツを着て同じようなカバンを持っていればよかったのかもしれません。

いまになって振り返ってみると、「私」という存在を認めてほしかったのだと思います。

当時、3か月で終わるといわれていた就職活動は卒業間近になってようやく小さな映像制作会社から採用通知を頂きました。

映像の仕事をするという希望が実現し、社会の入り口に立つことができました。

社会人時代

20才頃の自分

会社に採用され、社会人としてスタートを切ることができる。

これで母親や実家からも独り立ちできると喜びました。

しかし、その喜びも長くは続きませんでした。

就職した会社はとても小さな制作会社でバブルの崩壊とともに、私が希望していたテレビや舞台の映像制作ではなく、幼稚園や小学校などのお遊戯会や卒業式の撮影が主力業務に切り替わってしまったのです。

他にも企業研修で使うような教則ビデオを制作もしていたのですが、自分の中で何かが違う、と感じるようになっていきました。

その当時、仕事をすればその違和感も解消されると思っていたのですが、時間と共に何かが違う、という感覚がどんどん大きくなっていきました。

当時はバブル崩壊で大不景気。

勤務していた会社はマスコミ関連の仕事は一切受注することがなくなっていました。

会社自体も主力業務を変えたにもかかわらず映像では売上を出すことができなくなってしまい、主力業務が数年で楽譜を出版する業務に転換してしまいました。

景気が悪くなりつつあり、会社も生き残るために業務を転換したのは今では理解できます。

ただ、入社して私がやりたいと思っていた業務とは全く違う業務になってしまったため、入社後1年でその会社を退社することになりました。

その後は、名ばかりの映像制作会社に転職したものの1年たたずに何かが違うと思って退職。

イベント制作会社に営業アシスタントとして転職しました。

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イベント会社に転職してからはようやく引っ越し費用も溜まり実家を出て一人暮らしを始めました。

このころ、やっと家からの独立を実現できました。

イベント会社では一生懸命に仕事をやっていましたが、同期が次々に会社をやめさせられていました。

その状況の中、母方のおばあちゃんも亡くなってしまい、軽度のうつ病、ノイローゼのような状況になってしまいます。

このような状況で某新興宗教に誘われるようになり、自分の居場所があると感じるようになってその新興宗教に通うようになりました。

ただ、友人が家出をした際にその新興宗教の方々の友人に対する態度を見て不信感、絶望感を感じその新興宗教に通うことをやめました。

その後、印刷会社にDTPオペレーターとして入社して4年で退職。

パーカーなどの衣料プリント工房に転職しましたが、激務過ぎて2週間で退職。

2週間で退職したのはこの会社だけです(笑)

退職後やることがなかったこと、収入の道が途絶えてしまったので同人誌やオリジナル雑貨を製作してイベント販売を経験しました。

握り寿司はんこ(オリジナル)

段ボールディスプレイ会社の企画部門に転職し、1年後、パッケージデザインメーカーに転職しました。

これまで書いてきたように、何度も転職を繰り返してきました。

その中で、私自身やりたいこと、やりたい仕事でしかお金を稼ぎたくないと考えるようになり、それを実行してきました。

よくよく考えると勤務していた会社には大変な迷惑をかけてしまったと思います。

当時の自分の中では自分のやりたい仕事でお金を稼ぐ、ということが判断基準の最上位だったため、このような行動をとっていたのだと思います。

(最初は20社近く面接を受けてましたが、最後は2社位しか受けずどちらも受かるという風になっていきました)

7社ともすべて業種は違います。

短い期間に7つの仕事をしてきたことになります。

この短期間で7つの仕事を経験するということは今の仕事に大いに役立っていいますが、その当時は知るよりもありません。

7つの仕事を経験したこと、これは私にとっての強みにもなります。

7つの仕事を経験してきましたが、じつは1つだけ共通点があります。

それは「何かを作りたい」という願望です。

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(その③和紙との出会いに続く)
(その①出生~高校卒業まではこちら)